《平 和 特 集》
〔2011年7月30日〕

 今年の平和特集は、第三分会の岩井重さんと加藤友計さんにお話をうかがうことが出来ました。特に岩井さんは大正の生まれで25歳で終戦を迎えています。成人としてあの時代を過ごしたという意味で、貴重なお話だったと思います。
 震災の影に隠れていますが、普天間問題もいまだ解決の糸口が見えない状態です。8月を前に今一度過去を振り返り、日本と世界の平和について考えてみましょう。

第三分会の岩井重さん。
先々月まで長年「ぶんきょう」に版画を提供していた

焼け野原に1本残ったプラタナスの木
 私がいま本当に残念に思っていることの中の一つは講道館の前にある一本のプラタナスの木のことです。
 私が昭和21年に東京に出てきた時、講道館の前の並木は1本のプラタナスを除いて全部焼けただれていました。1本だけが残っていたのです。それが今も残っているのです。それを何とか保存したいと思って区役所に話しに行きました。しかし、その貴重さを理解してくれないのです。よく見ると幹の一部は空洞になっていますが木はまだ生きています。こんなことを知っている人はもう仲々いないと思います。どうか、このことを皆さんに知っていただきたいと思います。
 私は大正8年に生まれ今年92歳になります。満20歳の兵役検査で陸軍航空体に入隊しました。当所もう甲種電気工事士(人)でしたので、多分そのためか、通信士の方にまわされました。今は水戸市になっている吉田村という所で通信士の勉強をさせられました。その後、南京を経て漢口に送られました。漢口からは重慶等に陸軍航空隊が爆撃に出撃していました。出撃した飛行機の中で必ず一機や二機は帰還できませんでした。昭和16年には仏領インドシナ(今のベトナム)のサイゴンに派遣されました。12月8日の開戦前です。その頃に陸軍はもうマレー半島に上陸し、シンガポールを占領することを考えていたのです。航空隊の地上部隊は飛行場付近の雲の量・種類・高さ等を調べ本部に報告しなければなりません。飛行機がどの方面に飛べるかを判定するためです。
 12月7日に陸軍はマレー半島の要所コタバルに上陸し、1000キロメートル先のシンガポールに進撃しました。私達は1銭5厘で徴兵された兵隊と違うのだと教育されました。一人前の通信士にするのには大変なお金が掛っているのだといわれました。死ぬ前には必ず暗号表等を処分することを命じられていました。又、飛行機乗りはもっと大変でした。赤紙で徴兵された兵士達と食事も違うのです。食糧を送ってくる箱の色が違うのです。青色です。このようにして育てた海軍第一航空隊の百数十人の熟練の飛行士達がミッドウェー海戦で3隻の航空母艦が沈められ帰還するに帰還できず死亡したことは、軍としては大変な痛手だったと思います。マレー作戦が完了する前、昭和17年2月にはインドネシアに分遣隊とし派遣されました。これはとても危険な作戦でした。パレンバン石油地帯確保のための前哨戦です。当時アメリカはB29の前身であるB19という爆撃機を持っていたのです。こちらはそんな立派な飛行機ではありません。5機5個分隊で向いました。前哨地の確保です。

アメリカの溶接の船に驚く
講道館前のプラタナス
 パレンバン作戦でもオランダ軍の飛行場攻撃だけではありませんでした。パレンバンの町の方の攻撃は大変でした。町はマングローブの森に囲まれていて、その森に落下し、木等にひっかかり戦死した人もいました。
 その後、ジャワ島等にも行きましたが昭和21年6月に日本に帰ることができました。その間、アメリカの船も沢山みましたが、溶接で船を作っているのには驚かされました。私が漢口から南京を経てサイゴンに行った時は大安丸という6500トンの貨物船でしたがびょう打ちの船です。溶接の船ではありません。溶接の船は速さも違います。漢口からサイゴンまで1カ月半もかかりました。そしてスマトラから広島の大竹港まで無事に着くことができました。広島は原爆でやられ何年も草もはえないといわれていましたが、戦後1年で草ボウボウでホッとしました。2カ月程故郷の茨城県竜ヶ崎にいて東京にでてきました。その時見た風景の一つが講道館前のプラタナスの1本の木でした。






補足資料

南方作戦
 資源(特に石油)を確保し、長期自給の体制を確立するという目的を達成するため、天然資源が潤沢だった当時の東南アジアに攻め入った作戦のこと。南方作戦の目標は蘭印(オランダ領東インド)の石油資源の獲得であった。

コタバル
 マレーシアの都市。コタバルから10キロメートル程離れたパンタイ・ダサール・サパという地点が、1941年12月の日本軍によるマレー半島上陸作戦の舞台となった。

パレンバン
 インドネシアのスマトラ島の南側にある都市。オランダ統治時代、当地で石油資源が発見され油田開発が行われた。パレンバン油田での1年間の産油量は当時の日本の年間石油消費量を上回るほどであったため、太平洋戦争における蘭印作戦では日本軍の最重要攻略目標となった。