《平 和 特 集》
〔2012年7月12日〕

 先月6月12日に、板橋・練馬の市街地で迷彩服を着た自衛隊員が銃をもって行進訓練を行いました。市街地での武装行軍は都内では42年ぶりのことです。
 また同月21日に駆け込み成立した原子力規制委員会設置法の中では、原子力基本法の目的条項に「我が国の安全保障に資する」という一文をこっそり挿入し、韓国の新聞が1面で「日本が法的に核武装の道開いた」と報道する事態となっています。
 政府は多くの世論を無視して原発再稼動・消費税増税に突き進んでいます。そして、強権的な発言を繰り返す政治家に行き場のない世論が吸い寄せられています。
 これはいつか来た道か。8月を前に仲間の体験を通じて過去を振り返り、日本と世界の平和について考えてみましょう。

6月12日、板橋・練馬の市街地で銃を持って行軍する自衛隊員

戦争の記憶 12才、矛盾も感じず特攻訓練
新井 治男さん
 大人の話が少しずつ解るようになった年の私が小学校に入る前年、2・26事件がありました。小学校に入るとすぐ7月早々、支那事変があり、中国軍が仕掛けて来たからとの大義名分のもとで本格的に攻め入り華々しい戦果を繰り広げました。大都市の上海や南京を占領するたびに、チョウチン行列だ、旗行列だとお祭り騒ぎとなり、軍国主義がどんどんエスカレートして行ったのです。
 子供は皆兵隊さんにあこがれたものでした。軍事大国になった日本を警戒してアメリカが先頭に立って、東南アジアと一緒に「日本に石油を売るな、ゴムを売るな」で始まった経済封鎖から、戦争となりました。最初2年くらいは日本が勝ち戦で「東南アジアを米、英、フランスの植民地から解放して(大東亜共栄圏)をうち立てる」と鼻息も粗かったのですが、18年以降は形勢も次第に不利になり、ついに特攻隊が始まりました。12〜13才の私たちですら軍事訓練の毎日、時にはタコツボといって1入分の穴を掘って竹棒の先に爆薬を付けた物を敵の戦車のキャタピラに踏ませて動けなくする戦法の訓練など(これも特攻隊と同じ)を何の矛盾を感じることなく一生懸命にやったものでした。
 そうかと思えば勤労奉仕で山からスリッパ(鉄道の枕木)を縄で山から引きずって運んだり、桑の木の枝から軍服の材料にする皮をはぎとり集めたり、軍事訓練も飛行機の爆音で戦闘機の種類を識別する等、今考えると皆日本が勝つんだと思って(大人は別だったかも知れません)頑張ったものでした。
 でも群馬の山奥なので、食べ物には困らず、空襲の怖さも知らず、むしろ皆と一緒に行動して楽しい思いでばかりでしたが、戦後21年に就職して上京してからは、筆舌に尽くせない苦難の連続が始まりました。

バラックばかりで、富士山よく見えた
 昭和21年に親戚の手づるで電気工事の仕事に就くようになったのですが、高崎線の神保原の親戚から汽車にゆられ、池上線の荏原中延の会社に就職しました。勤務先は人形町で、力道山が力士だったころのスポンサーなどをやっていた建築会社の新田組の一画を出張所として間借りみたいな営業所でした。
 その頃は至る所で富士山がとてもきれいに見えたものです。富士見坂とか、富士見町等あちらこちらにあったくらい空気もきれい、高いビルが銀行、学校、デパートの焼け残りのコンクリートの建物くらいしかなく、それ以外はブリキを張り付けたバラックばかりでした。

明けても暮れても食べる事しか頭にない
 勿論食料不足で、育ち盛り、食べ盛りなのに、食堂のアルミの食器でご飯二口、みそ汁は茶色の汁に豆腐が二切れ、お弁当はちいさな茶碗で乾パン1杯を新聞紙に包んで、ハイ。田舎に居たときは、炊いたご飯が3合もはいる、木製漆塗りの楕円形の弁当箱(メンパ)でごく当たり前に食べていたのだから、空腹で朝から弁当も食べてしまう始末でした。でも良くしたもので、当時の施主は、人形町あたりで芸者の置き屋さんとか料亭とかをやっている裕福なところで、10時には和菓子、昼にはお蕎麦がでたりして嬉しかったもんです。もう明けても暮れても、食べることしか頭にありませんでした。また合間、合間にポケットから、炒った大豆(保存が効く)をポツリ、ポツリ食べて水を飲むと少しは空腹が凌げました。母がいっぱいあつらえて持たしてくれた訳が後になって解ったものでした。

アメリカ軍宿舎「成増グランドハイツ」の建設に従事
 それから半年ほどした昭和22年頃、今の光が丘団地、当時の成増飛行場跡地にアメリカ軍人の家族宿舎である成増グランドハイツの建設が始まりました。米軍の将校宿舎新築が大規模に行われ4〜5年掛けて1つの町が出来たのです。そこの現場で、住込みで働くようになって飯炊きのおばさんが居る飯場生活となり、やっとひもじい思いから解放されたのです。  1年ほどしてギターを買って古賀政雄の「影を慕いて」等をつま弾いて、少しは余裕ができて、映画なども見に行く事もできました。それなりに幸せを感じることが出来て楽しかったです。その頃、池袋に巨大な木造建築が出来たのが今の西武デパートだったのがとてもなつかしい思い出です。とにかく戦争が終って心底ほっとしました。