特  集
 
被災地支援交流激励ツアー
 ―宮城県石巻市、東松島市へ―
 〔7月28日〜30日〕

 7月28日〜30日、被災地支援交流激励ツアー(石巻市・東松島市)に支部代表として参加しました。参加の目的は、被災者支援・激励・交流・視察です。被災地支援交流激励文京実行委員会での全体の参加者は35人でした。


組みで住民の望みを聞いてまわる
野蒜駅の様子。この区間は内陸に
路線を移す予定となっている
宿泊場所からの光景。
震災前は多くの民宿が営業していた
激励・交流を伝える河北新報
(平成24年7月30日朝刊)
 初日の視察行動は、JR仙石線の野蒜(のびる)駅でした。ホームはボロボロで、街灯、ガードレールは人では絶対に曲げられないほど曲がっていました。駅舎の中は、天井は落ちていて軽天はむき出しになっており、ガラス戸は壊れて、鉄の扉も大きく破損していました。
 駅舎の隣の店舗も同様に破損していましたが、いまだに解体されておらず、とがった割れたガラスがそのままに残っていました。ホームから見えた民家の所まで行ってみましたが、どこの民家も1階部分はガラスが割れ、玄関のドアはなく、家の中は荷物であふれていました。
 その後、宿泊する月浜地区の民宿に移動し、近くにある仮設住宅にハエ取り紙と蚊取り線香を手土産に2〜3人組みで慰問をして住民のみなさんが今なにを望んでいるか聞いてまわりました。30世帯ほどの集落でしたがこの浜では幸運にも被害者が出ておらず、元あった隣近所がそのまま仮設住宅に移り住んだ形でした。そのため人間関係が維持され、その点では恵まれているとのことでした(異なる地域から人が集まっている仮設住宅では、その辺が難しいとのこと)。少し高台にあった宿泊先の民宿からは、基礎のみを残す民宿街の跡が見渡せ、津波がその地域ごと丸飲込み押し流したことがよくわかりました。

漁協のみなさんと地引網で交流行う
 2日目は東松島市の大曲浜で被災者、漁協関係者との交流を兼ねて地引網をやりました。コノシロ、アジ、ヒラメなど50匹ほどが取れました。その地引網の時には地元の新聞社である河北新報が取材に来ており、翌日の新聞にも大きく掲載されました。その後取った魚でバーベキューをしました。
 バーベキューの会場は、東松島市議の長谷川さんの庭をかりました。そこでは矢本漁協(東松島市大曲浜)の三浦委員長や千葉出身ながら震災をきっかけに大曲浜再建のためのサポーターズクラブを運営している若者、太田将司さんなどといろいろ話をしました。
 建築職人にできることはないか聞いてみるとそれなりにあるようでしたが、地元業者やボランティア団体との関係からすんなりとはいかないようでした。大工が不足しているようでした。なお、この地引網をやるために漁協の方で、瓦礫などで網が引っかかることがないよう浜をあらためて清掃したとのことです。また数値は問題ないものの放射能の風評被害で魚が売れない厳しい現状があることもわかりました。
 昼食をかねた交流バーベキューの後は再びバスに乗り、石巻市の主な被災地を視察しました。大破した北上支所跡や一部流されて仮設の橋でつながっている新北上大橋、そして多くの子供が犠牲になった大川小学校などを見てまわりました。大川小学校には焼香台が設けられており私たち以外にも訪れている人たちがいました。おそらく被害にあう前はかなりモダンな建物だったと思われる小学校が、変わり果てた姿になっていました。70人の幼い命が亡くなったという重い現実とその様が相まって、震災の恐ろしさと無常さを特に強く感じました。

途方もない量の海水
日和山公園から見た石巻市
雄勝地区の町営住宅
 その後、死者と行方不明者を合わせて200人を越える方たちが被害にあったという雄勝地区(雄勝支所付近)を視察しました。この地区は鉄筋の建物数棟をのこしてほとんど流されていました。湾が狭く平地が少ない分、津波が凝縮されてものすごい高さまで水が押し寄せたとのことでした。海水が来たと思われるところまで山の木々が枯れており、二階建ての建物の高さをはるか越えるその位置から推測すると、途方もない量の海水がこの地域に流れ込んだことがわかりました。

人影の無いひっそりとした街
 三日目は鹿島御児神社のある日和山公園にいきました。この公園は山の上にあり、旧石巻市内沿岸部から山のふもとまでの被害状況を一望することができました。数件の家と瓦礫の山を除き更地のような状況でした。その後、バスに乗って下に降り、その被害状況を見に行きました。年末の紅白歌合戦で長淵剛が歌った門脇小学校も見ましたが、現地ではその是非に賛否両論あったと聞きました。バスに乗っての視察でしたが、一見普通に建っている家々もよくみると一階部分が津波で抜かれており、人影の無いひっそりとした街がつづいていました。

組合の共感する心と連帯する力で
 今回の訪問では、残念ながら建築職人としての復興支援活動はできませんでした。しかし、一見普通の交流とも思える「地引網」の様子が地元有力紙の翌日の紙面に掲載されることからみても、「ただ現地を見てほしい。いまの状態を知ってほしい」といった被災地の要求は、確かにあるのだろう思います。慰問で被災者に話を聞いた際も「いつまでも頼っていられない」という言葉が何度かありました。私たちとすれば、何かあれば声をかけてほしいとのメッセージを届けながら見守るということが必要なのかもしれません。
 この報告をきっかけに少しでも支援の輪が広がるよう、労働組合の共感する心と連帯する力を発揮していきたいと思います。