《平 和 特 集》
 
戦争体験 〔2015年8月掲載 −ぶんきょう 第664号−15.7.10 より〕

安保関連法案は、海外で戦争するための戦争法案であり、平和憲法を破壊します

 安倍内閣は、多くの人々の反対の声を押し切って、自衛隊法など既存10法を一括して改正する「平和安全法制整備法案」と新設の「国際平和支援法案」を閣議決定し、国会へ提出しました。
 この2つの法案は、これまで政府が憲法9条の下では違憲としてきた集団的自衛権の行使を可能にし、米軍などが起こした戦争に自衛隊が地理的限定なく参加するなど、憲法9条をかつてなく破壊するものであり、まさしく戦争法案と呼ばれるべき内容です。さらに、安倍内閣は、現行安保条約の枠組みをも超える「グローバルな日米同盟」をうたっている新たな日米防衛協力の指針を取り交わし、安倍首相は、法案の「この夏の期間に制定」を、「約束」するなど、国民主権を踏みにじり、「国会の最高機関」たる国会の審議をないがしろにする形で、強引に法制化を進めようとしています。
 日本国憲法は、過去の悲惨な第二次世界大戦の後、国際紛争を戦争で解決しない平和と民主主義を願う人々の切実な声を基礎に生まれました。そのため、戦後70年間、日本の自衛隊は、海外で武力行使をすることも、海外で他国の人々とたたかって血を流すこともなく、日本は世界の人々から「素晴らしい平和憲法をもつ国」として、尊敬と信頼を集めてきました。
 ところが戦後70年を迎えた今、平和憲法が崩れ去ろうとしています。
 仲間の体験を通じて過去を振り返り、日本と世界の平和と民主主義について考えてみましょう。

池田さんの話

インタビュアー 第5分会 本多 健一さん
 今回私は初めてインタビュアーになり、多感な青少年時代を戦争に巻き込まれ、数奇な運命に翻弄された第五分会の賃金対策部長・池田利郎さんに戦争体験を伺いました。とても貴重な話でした。私も祖母から戦争体験はよく聞かされていたので、池田さんと共感する事が少しでも出来たのではないかと、とても嬉しく思いました。
 本当に御苦労様でした。
 「開戦4ヶ月前の昭和16年小学校2年生の時、東京から家族と共に中国の満州奉天(まんしゅうほうてん)へ転居しました。父親が満州飛行機(株)に勤務しており、建設関係の営繕課に属し、当時生活は安定していました。私は父のかわりに重労働も厭いませんでした。戦争半ば5年生の頃は、学校から帰ると2キロ位離れた兵器工場へ向かい、勤労奉仕の建前、軍歌を口ずさみながら働いていました。戦火が激しくなると中国パーロン軍がロシア兵と共に飛行場を占領し、破壊の限りを尽くし、重要物資はすべて持っていかれてしまいました。私も日本同様、防空壕生活を強いられていました。
 6年生の頃に、人生最大の転機が訪れました。少年兵に志願して新京(しんきょう)なる場所まで試験を受けにいきましたが、その途中で終戦になり今の私があります。もし合格し入隊していたら、シベリア奥地へ出兵は必至で、ソ連軍に拘留され命の保証はなかったに違いないでしょう。
 戦後はアメリカパール軍が飛行場を占拠し、米軍航空機が日本に向けて滑走していました。日本へ帰還したのは、中学1年生の頃で、満州から屋根なし貨物列車で葫芦(ころ)島の港へ引き上げ、船待ちで1ヶ月も足止めをさせられました。乗船したのはアメリカ船リバティー号でした。船内は過酷な状況で、栄養失調で亡くなる幼い子どもたちも見ました。昭和22年山口県仙崎港へ無事帰還することができました。その時米軍に消毒剤をかけられました。まるで物扱いでした。日本へ帰ってきても暫くは食料不足に悩まされました。その時のことは今でも忘れられません。」


入隊していたらシベリア奥地へ 命の保証はない

戦争は悲惨です  第1分会 高嶋 輝男

 私は昭和19年、当時8歳の頃、本郷の菊坂町に住んでいました。
 その頃は第二次世界大戦中で、私は真砂国民学校へ通い、小学生の子供も軍隊式に教育をされていました。
 当時は東京にも空襲があったので、防空壕を掘るようにと国のほうから命ぜられていて、各自庭でも掘られていました。
 父は軍族で、南方ニューギニア近くのハルマヘラ島と云う島で兵舎などを作っていた為、父の弟が度々遊びに来て防空壕を掘っていました。
 菊坂町の下道は地盤が低いため、1メートルくらい掘ると地下水が出て、防空壕に水が溜まり、子供の私は木製のタライに乗って遊んだ記憶があります。
 地方に親戚がいる子供たちは疎開を進められ、私は東北の山形県新庄市へ引越し、親戚の方にお世話になりました。
 その年は大雪の吹雪の中、学校へ通いました。住んでいた場所から少し離れた真室川町に日本軍の施設があり、春になる頃、米軍グラマン戦闘機が多数飛び交っており、急降下して上昇したあと爆弾が破裂する様子が遠くで見えました。住んでいた町にも米軍戦闘機が低空飛行しているのを見ました。当時は食糧もなく、母は食材を求め衣類等を持って物々交換に町へ出かけていたそうです。昭和20年8月15日に母より戦争が終わったことを聞かされました。戦争は悲惨です。